余土出身の文化人 「森 盲天外」


森 恒太郎(盲天外)
  こうたろう もうてんがい

森恒太郎は、1864年8月13日余土村庄屋、森謙蔵の長男として、余戸西に誕生した。
日本で初めての盲人の村長となり、すばらしい村作りを行ったことで有名である。また俳句を愛し書道にも優れ、数々の著作を残した。
天外という名は正岡子規につけてもらった俳号であり、後に目が見えなくなってからは盲天外と自ら名乗るようになった。

・盲天外と俳句について

21歳の頃から弧鶴という名で俳句に親しんでいた恒太郎は、明治24年8月「はせを影(ばしよう)」という俳句の雑誌を創刊した。そこで”三樹堂弧鶴”(さんじゅどうこかく)と名乗り、俳句やその考え方を載せている。「はせを影」は、明治25年4月第8号まで刊行され1冊は当時5銭だった。

松山の俳句の会「松風会」にも余戸からは森河北、森円月とともに参加し、柳原極堂の主催する「ほとどきす」にも多くの句を残している。

【俳句】
○「はせを影」より  (俳号 弧鶴)
水打った 芭蕉にやどれ 夏の月
櫂たてて 蚊帳つるふねや 夏の月

○「ほとどぎす」より (俳号 盲天外)
雪の道 ほきりほきりと面白し
伊豫と申す 国暖(くにあたたか)に 出湯湧く

折り折りは 栗もまじりて 木の葉ふる
{この句は余土かるたにもおさめられており、風が吹いて木の葉がかさこそ待っている。木の葉だけかと思ったら栗の落ちる音までまじっている。盲人ならではの鋭い感覚と感性が表現されている。

・盲天外とその著作

『れんめんと 生きざましのばす 一流米(いちりゅうまい)』
1896年、恒太郎は網膜出血のため32歳で目が見えなくなってしまった。希望を失い3度も死を決意したが「一粒の米にも大きな望みがある、負けるものか」と自分を取り戻し余土村の村長としての活躍を始める。1908年にその頃のことを「一粒米(いちりゅうまい)」という本にまとめ出版すると、非常に評判が良かった。

○出版された著作

著書名 発行年月日 年齢 定価
一流米 明治41年(1908)6月13日 45歳 45銭
義農作兵衛 明治42年(1909)6月18日 46歳 25銭
町村是調査指針 〃           11月25日 46歳 80銭
貯金道話 〃           11月25日 46歳 80銭
農業道徳 明治43年(1910)5月15日 47歳 1円
公民物語我が村 大正15年(1926)4月25日 63歳 2円
体験物語我が村 昭和2年(1927) 2月5日 64歳  1円50銭 

・盲天外と書道

恒太郎は目が見えなくなってからも、力のこもった書を残している。盲目になってから大きな字を書くときは、たすきをかけて人に着物の両袖を後ろに持ちあげてもらい、はじめの筆を下ろすところを教えてもらって書き上げたとされている。
昭和52年の夏、県立美術館で「盲目の書家-森盲天外展」が開かれ、力強い気品のある書を通して、彼の業績をしのんだ。

昭和9年(1934年)4月7日、恒太郎は70歳の一生を終えた。墓は道後姫塚の義安寺にある。昭和28年11月3日、余土村が松山市と合併した際に、森恒太郎の立派な働きを後世に伝えるため記念碑が建てられた。現在も余土小学校にその碑はあり、当時の森千枝松村長が盲天外の功績を詳しく記している。

(参照:「余土百年のあゆみ」より)